菊池寛
底本:「菊池寛 短篇と戯曲」文芸春秋
1988(昭和63)年3月25日第1刷発行
入力:真先芳秋
校正:林めぐみ
菊池寛
青木の家は、雄吉の知る限りでは、田舎のかなりの資産を持った商人らしかった。青木が、クラスの中で最も多く原書を買い込む事実からいっても、彼がその時まで給与されていた学資は、かなり豊富であったらしかった。
「じゃ、学資が来なくなったわけなんだね」と、雄吉は、この場合にもっと適当した言葉がほかにあると思いながら、とうとうこんな平凡なことをいってしまった。青木は、雄吉の質問をいかにもくだらないといったように、
「まあ! そんなわけさ」と、いったまま黙ってしまった。
センチメンタルで、ロマンチックで、感激家であった雄吉が、突然青木の身の上に振りかかった危難を知って、極度に感激したのは、むろんのことであった。彼は、どんなことがあっても、青木を救ってやらねばならぬと思った。雄吉にとって、青木を救う唯一の手段は、やっぱり、今自分が世話になっている近藤家の金力に、すがるよりほかはなかった。雄吉は、そう考えると、その日学校から帰ると、自分が家庭教師兼書生といったような役回りをしている近藤家の主人に、涙を流さんばかりに青木の救済を頼んだ。
「本当に、その男は天才なんです、教授連が、すっかり舌を巻いているのです。後来きっと日本の学界に独歩するほどの大哲学者になりそうです」と、自分のいっていることに、十分確信を持ちながら、青木の効能を長々と述べたてた。すると、主人の近藤氏は、実業家に特有な広量な態度で、
「俺は、哲学ということは、どんな学問だか、一向心得んが、いずれ国家に有用な学問に相違なかろうから、その方面の天才を保護するのも、決して無用のことじゃなかろう、君がそうまでいうのなら、青木という人も、家へ来てもらって一向差支えがない」と、こういいながら、何か掘出し物の骨董をでも買うような心持で、青木を世話することを引き受けてくれた。雄吉は、この時ほど、近藤氏を偉く思ったことはなかった。
雄吉は、自分の手で青木を救い得たことを、どれほど欣(よろこ)んだか知れなかった。雄吉は、その翌日その吉報をもたらして、いそいそとして登校した。その途中でも、彼は、青木がその知らせに接して、どんなに欣ぶか、どんなに自分の親切を感謝するだろうかと考えると、自分の心がわくわくと、鼓動するのを覚えた。
が、雄吉が、寄宿舎の窓にもたれて、霜柱の一面に立っている運動場を放心したようにぼんやりと見つめている青木を見つけて、近藤氏の厚意を話した時―― 大なる興奮と感激とをもって、話した時、青木はその起きてから間もないと見え、極度に蒼白い顔の筋肉を、ぴくりともさせずに、ただ一言、「そうかい!」と、いったばかりであった。雄吉は、青木の冷静な、ほとんど無関心な態度を、ある種の驚異をもって見た。自分の身の上に湧いてくる危難を、ものの数ともせずに、雄吉の親切などを、眼中においてない青木の態度を、雄吉は怒るよりも、むしろ呆気(あっけ)に取られて見つめるばかりであった。
「じゃまあ! 近藤氏の世話にでもなるか。学校なんかどうだっていいのだが、好き好(この)んでよすにも当らないからな」と、いつものように、傲岸にいい放ちながら、にやりと青木に特有な、皮肉な、人を頭から嘲(あざけ)っているような、苦笑をもらした。雄吉は、自分の全心を投じた親切を、青木のために、こんなに手ひどく扱われながら、それでも青木が、とうとう自分の親切を受け入れてくれて、自分の崇敬措(お)く能わざる青年哲学者の危急を救い得たことを、無上の光栄のように欣んでいた。
青木が、近藤家に寄寓して、雄吉と同室に起臥することになったのは、それから間もなくのことであった。今までもそうであったが、こう二人の生活が、ことごとに交渉することになってからは、雄吉の生活は、ことごとく青木の意志の支配を受けていた。近藤家から命ぜられるすべての仕事は、ことごとく雄吉の負担であった。それと反対に、近藤家から与えられる恩典の大部分は青木が独占した。が、雄吉はそうした自分の従属的な生活を、少しも後悔してはいなかった。思索家、青年哲学者としての青木に対する彼の崇拝は、少しの幻滅をも感じなかったばかりでなく、青木との交情が進むに従って、ますます拡大され、かつ深められていた。ことに、青木が三年になって以来、校友会の雑誌に続けざまに発表した数篇の哲学的論文は、彼の青木に対する尊敬を極度にまで煽(あお)り立てねば止まないものであった。一つは「ベルグソンの哲学の欠陥」といい、一つは「実在としての神」というのであった。その二つの論文が学校中に起した感動(センセーション)はかなり素晴らしいものであった。天才青木! それは、雄吉のクラスだけでの合言葉ではなくなって、ほとんど学校中全体にさえ承認を求めるようにまで進んでいった。雄吉は、青木の天才が、こうした輝かしい承認を受け始めたことを、どんなに驚喜したか、わからなかった。こうして、多くの人々から認められるにつけて、青木の自信と傲慢とは、正比例して増進していった。たしか彼が、近藤家へ移ってからのことであった。その頃、京都大学の哲学教授で、名声嘖々(さくさく)として、思想界の注目をひいていた北田博士が珍しく上京して、大学の講堂で講演をした。それをききに行って帰ってきた青木は、雄吉の顔を見ると、いつものように、吐き出すような調子で、「北田博士から、あの哲学者らしい顔付を除けば、跡には何も残りゃしないぜ」と、いったまま、口をつぐんでしまった。雄吉は、北田博士に対しても、十分な尊敬を持っていたが、彼の崇拝する青木が天下の大学者たる北田博士を一言の下に片づけるその大胆さを、痛快に思わずにはおられなかった。