菊池寛
底本:「菊池寛 短篇と戯曲」文芸春秋
1988(昭和63)年3月25日第1刷発行
入力:真先芳秋
校正:林めぐみ
菊池寛
雄吉の青木に対する尊敬は、少しも変らなかったが、近藤家に来てから、青木の生活は、妙にぐれ出していた。彼はむろん、実家が破産したということから、ずいぶん大きい打撃を受けていた上に、日常の生活においては、かなり享楽者(エピキュリアン)であった青木は、なんといっても不自由な寄食的生活と、月々給与せられる五円という小額な小遣いとのために、その生活をかなり虐げられているらしかった。彼は、見る見るうちに蔵書――高等学校生としては極度に豊富な蔵書を、売り払ってしまった。彼には、他人の家に宿食してからも、その享楽的な生活を更改することが苦痛らしく見えた。彼は蔵書を売り払った金で、やっぱり本郷あたりのカフェで、香りと味の強烈な洋酒の杯を享楽していた。そのうちに、青木の身辺から、消滅するものはその蔵書ばかりではなくなった。いつの間にか、彼の懐中時計は彼の机上から、影を隠していた。
そんなことが起っているうちに、だんだん雄吉と青木との二人を襲う災害が近づいてきていたことを、雄吉は少しも気づかなかった。雄吉は、青木のそうした放逸な生活も、天才的な性格にはありがちな放縦として、むしろ好意をもって彼を見守っていた。
三月の試験が間近に迫ってきた頃であった。雄吉が何かの用で少し遅れて、学校から帰ってきた。すると、よほど前から帰っていたらしい青木は、雄吉の目の前に、いきなりある小さい紙片を広げて見せた。
それは、金銭上の取引きなどには疎(うと)い雄吉にとっては、かなり珍しい小切手であった。しかも、雄吉ら学生にとってはかなりの大金だといってもいい百円という額面であった。雄吉は、妙な不安と興奮とをもって、青木の手中にあるその小切手を見つめた。
「どうしたのだ、その金は?」と、雄吉の声は、かなり上ずっていた。
「どうもしないさ」と、青木はいつものように、冷静であった。「矢部さんがね、僕の窮状に同情してくれて、翻訳の口を探してくれたのさ。かなり大きい翻訳なのだ、僕が困るといったものだから、これだけ前金を融通してくれたのだ、はははは」と、彼はこともなげに笑った。矢部さんというのは、学校の先輩で、もうすでに文壇にも十分に認められている新進の哲学者であって、青木は二、三度、この人を訪問したことがある。雄吉は、青木に向いてきた幸運を、自分のことのように欣(よろこ)んだ。それと同時に、まだ学生でありながら、そうした大きい翻訳に従事する青木を、賛嘆せずにはおられなかった。
「それで、君に頼みたいのだがね、この小切手を、一つ貰ってきてくれないか。○○銀行支店といえば、そう遠くないのだから、四時までには行けるだろう。裏へ署名して判を押すのだが、僕は判を持っていないから、君の名でやってくれないか」
雄吉が、青木の依頼を唯々諾々(いいだくだく)としてきいたのはむろんである。雄吉は、自分が青木の代人としてそうした大金を引き出すのを、一個の名誉であるがごとく、欣んで○○銀行支店へ駆けつけた。
手の切れるような、十円札を十枚、汗ばんだ手で握りしめながら、雄吉はあたふたと帰ってくると、青木は鷹揚に、
「やあ御苦労御苦労」と頷いて、雄吉から受け取った札を数えると、その中から二枚を雄吉の前に差し出しながら、「ほんの少しだが、取っておいてくれ給え」といった。中学時代から、貧家に育った雄吉には、二十円というような大金をまとめて掴(つか)んだことは、そうたびたびある経験ではなかった。雄吉は、自分の尊敬する君主から、拝領物をでも戴いたように低頭せんばかりに、
「やあ、ありがとう」と、いいながらそれを押し戴くようにした。
八十円を懐にした青木は、線香花火のように燦(きらび)やかな贅沢をやった。彼は、クラスの誰彼を、その頃有名に成りかけていた、鎧橋(よろいばし)際のメイゾンコーノスへ引っ張って行って、札びらを切って御馳走した。そして、二晩も三晩も、寄宿舎へ泊るといって、近藤の家へは帰ってこなかった。
が、一週間と経ち、十日と経つうちに、青木はまた元のように慎ましい生活を強いられているようであった。それは、雄吉にとっては忘れられない四月の十一日の晩であった。晩餐を済すと、青木は「ちょっと散歩してくる」といって出ていったまま、なかなか帰って来なかった。雄吉はただ一人、春の宵にありがちな不思議な憂鬱に襲われて、ぼんやり机にもたれていると、後の襖が、音も無く開かれたと思うと、聞き馴れた小間使いの声がして、
「旦那様が、ちょっと御用です」と、いった。
「はあ」と答えると、雄吉は気軽に立ち上った。また、いつものように、到来物の礼状でも書かされるのだなと思いながら、長い廊下を通って、主人の部屋へ行った。いつもは、微笑を含みながら、雄吉を迎える主人が、にこりともしないで、苦り切ったまま座っているので、雄吉はいささか勝手が違いながら、座って礼をした。すると、主人は、「はなはだ不快な用事だが」といいながら、その膝の上に置いてあった紙入から、小さい紙片を取り出して、雄吉の目の前に押しやりながら、
「どうだ、それに覚えがあるかな」と、硬い、凍ってしまったような声でいった。雄吉は、なんだか見覚えがあるように思った。彼は、恐る恐る、それを取り上げた。雄吉の目が、紙面を見詰めた瞬間に、彼の全身は水を浴びせられたように戦(おのの)いた。それは紛れもない、百円の小切手であった。しかも自分が、青木の命令によって、唯々諾々として○○銀行支店へ引き出しに行った百円の小切手に相違なかった。主人は、雄吉の顔面に現れた狼狽を見済すと、以前よりももっと冷たい声で、
「その裏の署名捺印は、お前のに相違なかろうな」といった。雄吉はぶるぶる震える手で裏を返して見た。そこには、明確に過ぎると思われるほど、丁寧な楷書で、広井雄吉と署名されて、捺印されている。