菊池寛
底本:「菊池寛 短篇と戯曲」文芸春秋
1988(昭和63)年3月25日第1刷発行
入力:真先芳秋
校正:林めぐみ
菊池寛
彼はその夜、青木の帰るのが待たれた。青木がその小切手に対して、明快な弁解をしてくれるかも知れないという、空疎な希望もあった。また青木が、自分の罪を自分で背負って、主人の前に懺悔する。すると、主人は雄吉の潔白とその犠牲的行動とに感激する。そして、雄吉の友情に免じて青木の罪をも不問にしてくれる。雄吉はそうしたばからしい空頼みにも耽っていた。
青木が帰ったのは、十一時を回っていた頃であった。彼はやはり、いつものように、つんと取り澄ました彼だった。雄吉が、常に青木に対して持っていた遠慮も、今日ばかりは、少しも存在しなかった。
「おい! 青木、ちょっとききたいことがあるんだがね」と、雄吉は青木のお株を奪ったように、冷静であった。
「なんだ!」と、青木は雄吉の態度が、少し癪に触ったと見え、雄吉の目の前に、突っ立ちながら答えた。
「まあ! 座れよ。立っていちゃ、ちょっと話ができないんだ。実は、この間の百円の小切手だがね、あれは君、本当に翻訳の前金として貰ったのかい」
「なんだ、そんなことを疑っているのかい。この間、君にもいったじゃないか。僕が矢部さんと共同でベルグソンの著書を片端から翻訳することになったんだよ。その前金として矢部さんが貰ってくれたんだ」と、青木の答は、整然として一糸も乱れていなかった。その瞬間、雄吉は近藤氏の言い分の方を、何かの間違いではないかと、思ったほどであった。
「そうか。それなら、はなはだ結構だ。実は、さっき、ここの主人に呼ばれて行ってみると、主人があの小切手を出して、これに覚えがあるかと、いうのだ。で、あると俺が答えると、主人は、あの小切手は主人の手文庫にしまっておいたもので、俺が盗んだのだろうというのだ。が、君が本当に翻訳の前金として貰ったというのなら大いに安心した。じゃこれから、主人のところへ行って、弁解してくれないか」
それをきいた時の、青木の狼狽さ加減を、雄吉は今でも忘れない。青木は、彼が今まで装ってきた冷静と傲岸とが、ことごとく偽物であったと、思われるばかりに、度を失ってしまった。彼の顔は、一時さっと真っ赤になったかと思うと、以前より二、三倍も、蒼白な顔に返りながら、
「君、本当かい、主人が本当にそんなことをいったのかい」と、青木は哀願的に、ほとんど震えるばかりの声を出した。
「本当だとも、今から主人の前へ出れば分かることだ」と、雄吉は厳然としていった。彼はその瞬間、青木に対する自分の従僕的な位置が転換して、青木に対して、彼が強者として立っているのを見出した。彼は、それが快かった。
「あっ! どうしよう、俺の身の破滅だ」と、悲鳴のような声を出したかと思うと、青木は雄吉の目の前に顔を抱えながら、うつぶしてしまった。今までの倨傲(きょごう)な青木、絶えず雄吉を人格的に圧迫していた青木が、今やまったく地を換えてしまって、そこに哀れな弱者として蹲っていた。
「君はどうして、あんな非常識な、ばかなことをやるんだ。泥棒をやるのなら、なぜもう少し、泥棒らしい知恵を出さないのだ」と、雄吉は、青木と交際し始めて以来、初めて彼を叱責した。
「それをいってくれるな。俺のは、まったくふらふらとやってしまうのだ。俺は、そのためにいつかは身を滅ぼすと、思っていたのだ」と、そういいながら、彼はその蒼白な顔を上げた。なんという悲壮な顔だったろう。盗癖という悪癖を――意識をもってはどうともできない悪癖を持っている人間の苦悩といったものを、顔全体にみなぎらしていた。
「どうしよう広井君! (青木が雄吉に君を付けて呼んだのはこれが初めてだった)どうか。俺を救ってくれ、俺は破産した自分の家名を興す重任を帯びているのだ。食うや食わずで逼塞(ひっそく)している俺の両親は、俺の成業を首を長くして待っているのだ。ここを追われると、俺のこの身体で食っていくことさえ覚束(おぼつか)ない。ああどうしよう、広井君! どうかして俺を救ってくれ、主人は君、告発するとか、そんなことはいいはしまいね」
雄吉の心には、かくまでに参ってしまった青木に対する同情と、今まで自分を見下していた青木が、手を合わさんばかりに哀願しているのを見ている一種の快感とが、妙にこんがらがっていた。そして、その二つともが、彼が青木の罪を負うという決心を固めるのに役だった。
彼は、主人の部屋を出た時と同じように得々とした心持で、
「実はね、主人の前は僕が責任を背負ってきたのだ。僕は君のために、この罪を背負ってこの家を出ようと思うのだ。君を罪に落したところで、僕が、君をこの家に紹介した責任は逃れないし、また僕が何も知らないで、小切手を引出しに行ったということも、ちょっと弁解が立たないし、これが表沙汰にでもなるというのなら、別問題だが、この家を出さえすれば済むことだから、僕も即座に決心してしまったんだ」
これをきいた時の、青木の顔が一時に生気を呈したのはむろんであった。が、青木は、なるべくその生気を押し隠すように、涙を――それも嬉し涙であったかも知れぬと雄吉は後で考えた――ぽろぽろと流しながら、「そんなことを! 僕の罪を君に委せて、僕が晏然(あんぜん)と澄ましておれるものか、僕はそれほど卑屈な人間ではない。さあ一刻も猶予すべきでない、さあ主人のところへ行こう」
雄吉は、後年になってから、なぜその時青木と一緒に主人のところへ行かなかったかを悔いた。が、不思議な感激と陶酔とに心の底までを腐らされていた雄吉は、威丈高(いたけだか)になるばかりに、
「ばかなことをいっちゃ困る。君が、この家を出たら、どうなると思う。君はその弱い身体で、パンを求めるさえ大変じゃないか。まして、学校をどうするのだ。君は自分で、自分の天分を愛惜することを忘れちゃだめだぞ。僕はこの家を出ても、どうにでもやってみせる」と、感激に溢れた言葉でいった。