菊池寛
底本:「菊池寛 短篇と戯曲」文芸春秋
1988(昭和63)年3月25日第1刷発行
入力:真先芳秋
校正:林めぐみ
菊池寛
「君がなんといっても、君に代ってもらっては僕の良心に済まない。どうか、僕に自白させてくれ給え」と、青木は叫んだ、青木の言葉も、まんざら偽りだとは思われないほど感激していた。
「が、どちらにしても今夜は遅い。主人は寝ているに違いない。それよりか、君も僕も一晩ゆっくりと寝ながら考えよう」
青木も、それに異存はなかった。雄吉と青木とは、枕を並べながら、眠られない一夜を明した。
雄吉の決心は、夜が明けても、動いていなかった。が、主人に自白するといった青木は、夜が明けると、そのことをけろりと忘れてしまったかのように、ただ目にいっぱい涙を湛(たた)えながら「済まない済まない」と、口癖のようにいい続けるだけでだった。
その日の午後に、雄吉は、わずかな身の回りのものを始末して、三年近く世話になった近藤家を去った。
近藤家を去った雄吉は、自分の壮健な肉体に頼るほかに、なんらの知己も持っていなかった。彼は、その翌日からすぐ激しい労働に従事した。もう卒業までは、わずかに三カ月である。学校を出て大学に入れば、自活の道も容易に見出されると思っていた。が、そうした苦しい奮闘のうちにも、彼は青木から得る感謝と慰藉を、自分の苦闘の原動力としようとさえ思っていた。
が、そこに雄吉にとって食うべき最初の韮(にら)があった。青木は雄吉の予期とは反対に、雄吉を敬遠し始めた。二人が会って話していると、そこに奇怪な分裂が存在し始めたことを、雄吉は気がつかずにはおられなかった。青木のことを雄吉は、いつの間にか青木! 青木! と呼び捨てにしている自分を見出した。彼は青木に対して、命令的な威圧的な態度に出る自分を見出した。それは、今までの青木と雄吉との位置の転倒であった。今まで、青木に踏みつけられていた雄吉が、奇抜な決死的な手段によって、青木を征服して、上から踏みつけているようであった。傲岸で自意識の強い青木は、雄吉のこうした態度に、どれだけ傷つけられたか分からなかったらしい。
「俺は貴様の恩人だぞ、貴様の没落を救ってやった恩人だぞ。俺のいうことに文句はあるまいな」と、いったような意識が、青木に対する雄吉の態度の底に、いつも滔々(とうとう)として流れていた。青木は、雄吉のそうした態度から来る圧迫を避けるためであったろう。教室へ出ている時にも、なるべく雄吉と話をすることを避けた。雄吉が、それを怨み憤ったのは、もとよりであった。二人の間には、大きな亀裂(ギャップ)が口をあけ始めていた。
高等学校を出ると雄吉は、学資を得る便宜から、京都の大学に入ることになった。さすがに雄吉との別離を惜しんだ青木は、
「もう僕も、大学生なんだから、月に十円や十五円の内職をすることは、なんでもないことだから、僕が働いて月十円は必ず君に送金する。それは当然僕のなさねばならぬ義務だ」と、青木はその大きな目に涙を湛えながら、感激していった。
雄吉の京都における生活は、かなり苦しい悲惨なものであった。彼は、ある人の世話で、職工夜学校の教師をした。が、それは彼の時間のほとんどすべてを奪って、しかもわずかな報償を与えるのに過ぎなかった。彼は、ノートを購(あがな)うにさえ、多くの不自由を感じた。彼は一時の興奮と陶酔とのために、青木のために払った犠牲のあまりに大きかったのを後悔し始めた。彼は、よく芝居で見た身代りということを、考え合わせた。一時の感激で、主君のために命を捨てる。それはその場きりのことだ。感激のために、理性が盲目にされているその場限りのことだ。雄吉自身の場合のごとく、その感激が冷めているのに、まだその感激のためにやった一時の出来心の恐ろしい結果を、背負わされているのは堪らないことだと思った。
青木が、涙を流しながら誓った送金は、いつが来ても実現しなかった。雄吉は堪らなくなって、二、三度督促の手紙を出した。青木からは、それに対して一通のハガキさえ来なかった。彼は、最後にほとんど憤りに震えているような文面の手紙を出した。それに対しても、青木は沈黙を守り続けた。
もう、その頃の雄吉は、自分の身代り的行動を、心の底から後悔し始めていた。それと同時に、現在の苦学生的生活の苦悩が、ひしひしと身に食い込んできた。そのために、彼は自分の過去におけるばからしさと、青木の背信とを恨んだ。
が、雄吉の食らうべき第二の韮(にら)は、もうそこに用意されていた。雄吉が京都に来た翌年の春であった。雄吉や青木と同じクラスであった原田という男が、故郷の岡山から上京する道で、京都に立ち寄って雄吉を訪問した。彼は、雄吉の顔を見ると、すぐ、
「君は、青木のことをちっとも知るまいな。あいつはこの頃大変だぜ。すっかり遊蕩児になりきってしまってね。友人の品物を無断で持ち出すやら、金を借り倒すやら大変だ。近藤さんのうちも、とうとうお払い箱さ。なんでも、近藤さんのうちの貴金属をずいぶん持ち出して、売り飛ばしていたんだってね。あいつのは、まるきりでたらめなんだ。後で露見しようがしまいが、そんなことは平気なんだ。あいつは悪事をやるのまでが天才的だ、という評判だよ。……今だから、いってもいいが、あいつは君が近藤さんのうちを出た時に、何か君が悪いことをやったように、僕たちの間に触れ回っていたよ。僕たちは、むろんそれを、少しも信じなかったがね」といった。
雄吉は、それをきいていると、青木のために土足で踏みにじられたように思った。「貴様は俺に恩を施したつもりでいるのか、貴様から受けた恩なんか、この通り踏みにじってしまったのだ。貴様が、一身を賭して、僕のために保留してくれた近藤家の保護を、俺はこちらから御免を蒙ったのだ」といっているような青木の皮肉な顔を、雄吉はまざまざと想像することができた。